ロゴスの小径 ~心の空洞を埋める方法~

やさしい哲学が、あなたの世界観を変えます。

モチベが保てない本当の理由は、自己評価に関係している

ロゴスの小径へようこそ。

 

一つのことが長続きしないで悩んでしまうことありませんか?

あんなに高いモチベーションで始めたことが長続きしない・・・

続ければうまくいく(はず)なのに

続けることができない。

結果が出せない。

 

その原因は、数値からは読み取れない「自己評価」にあります。

そしてその解決策は、他のチャンネルを持つ

ということです。

 

例えばブログで稼ぎたいと思っているとしましょう。

 

ちなみに、なぜその例にするかというと、私自身それを目指していないからです。
自分の目指すものを例にすると心が痛んでw冷静になれないからです。

 

なので、皆さんも自分の目指すものではない部分で考えてみると
冷静になれて理解しやすいかと思います。

 

ブログで稼ぐぞ!と意気揚々とブログを始めてみたものの
そのうち長続きしなくなったりします。

 

なぜ続かないかというと、結果がすぐには出ないからです。

でも、もしブログの訪問者が毎日一人ずつ増えていったとしたらどうでしょうか。

やる気出ちゃいませんか?

たとえ一人ずつであっても、成長している感じがしますから。

 

でも、訪問者(もしくは収益など)が思ったより増えていかない

もしくは一度増えたかに見えたのに減ってきた

 

これがモチベが下がる大きな要因ではないでしょうか。

 

そして、モチベが下がる本当の理由は、

訪問者数や収益という数字が減ったからではありません。

誰からも承認されないのではないかという承認欲求が満たされないことや

周りの「順調に成長している(ように見える)人」と比べて

成長し続けていない自分の

自己評価が下がるからです。

 

自己評価を下げるようなことからは普通人は目を逸らしたくなりますよね。

コツコツ続けるダイエットも、毎日1gでも必ず減るなら続きやすいと想像できますよね。

 

それががんばったのに減らなかったりすると

もうがんばらなくても同じじゃん、と思えたりして(誰の話・・・?w)

 

それが生活に関わる主たる仕事であれば目を逸らすわけにもいきませんが

副業だったり趣味だったりすれば逸らすのは簡単です。

 

では、そこから目を逸らさずに頑張ればよいのでしょうか?

 

もちろんそれは自分で決めることではありますが

 

そんなに苦しいことをする必要があるようには
私には思えません。

 

苦手な科目をがんばってがんばってやり続けるより

他の得意な科目をやった方が勉強は楽しいものです。

 

自己評価を下げるようなことを続けて自分を傷つけるなんて

マイナスにしか思えません。

 

が、また同時に

その苦しみを乗り越えた人だけが、手にできることってあるんですよね・・・

それはなんでもそうです。

 

プロのスポーツ選手だって、下積みがあって今があるわけですし

 

どんなにちゃちゃっと有名になったかのようにみえる

youtuberさんだって、最初は紆余曲折や試行錯誤があったはずです。

 

じゃあ、続けるのもつらい、やめるのもいや、な人はどうすればいいのか?

 

それは

一つのことに集中しない環境を作るということではないでしょうか。

 

日本では、一つの道を追求するのが美しいことのように思われがちですが

そんな法律もルールもありませんよね。

 

才能のある歌手が、俳優に転向してさらにお笑いをやってもいいわけです。

 

むしろたくさんの道(可能性)をもっていると

その時々にうまく息抜きが可能です。

 

私は往々にして絵の制作に行き詰まると

文字が書きたくなりますw

 

ブログの更新はそのタイミングですww

 

そして文字に行き詰まると絵を描きたくなります。

そうしてバランスをとっています。

 

彼とうまくいかないときは、他の男友達と会う。

友達といても楽しくないときは、他の友達と会う。

仕事が楽しくないなら、嫌ならすぐ辞めればよい副業をしてみる。

通院してもよくならないなら、他の病院に行く。

人と会うのがつらいなら、引きこもってゲーム三昧する。

 

行き詰まったときの打開策はいつも

「他のチャンネル」です。

 

とすると、必要なのは

普段から他のチャンネルを持つことだとわかります。

 

引きこもりたいと思っても、ゲームの仕方も知らない、読書もマンガもいや、

ネットもできない、だとしたら

引きこもりに飽きるのも時間の問題ですよねw

 

カレシ一人だけいればいい、と他の友達との縁をいっさい切ってしまうから

その人がいなくなったとき自分をリカバリーできなくなるわけです。

 

まとめますと

一つのことにモチベをキープして
長くやり続けることが美徳とされているがそれは幻想である。

自分がつらいことから逃げたいときのために、

多くのチャンネルを自分に用意しておくことが大事

 

最後までお読みくださってありがとうございました♪

 

なお旅のブログを運営しております。

もしよろしければこちらも息抜きいかがでしょうか♪

tabi-cafe.hatenadiary.jp

 

 

いま、ここ。(時間論2)

ロゴスの小径へようこそ。

「いま、ここ」って「いつ」で「どこ」?

 

「いま、ここ」を大事にいうフレーズが「なんとなくええ話」的に広まっていますが、時間とは何かを突き詰めると、それは驚くほどあやふやな概念です。

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「時間」は存在しているという固定観念

川は一つの「川」に見えますが、水は常に流れ、入れ替わっています。ということは、「いま」「ここ」にある川は、1秒前の川と全く同じだと言えるのでしょうか?出来事は、運動し移り変わります。

なお、今回のお話はこちらの記事の続きになります。

pathofrogos.hatenadiary.jp

 
 前回もお話ししたように現代では、時間を物理学的に「絶対空間」「絶対時間」として理解しているのが一般的です。絶対時間とは、一本の川の流れのように、確固たる「時間」があるとしているような考え方で、私たちの自然な時間の捉え方と言えます。

 

しかし、宇宙に物が一つも存在せず、全く出来事が起こらない空間があるとしたら、そこにも「時間」はあると言えるのでしょうか?宇宙を含め世界の全てがピタッと止まったまま動かないなら、「時間」は存在しないように思えます。そこで時間とは「変化」そのものだという議論があります。

これにはさらに、「変化」をどう捉えるかという問題が関わってきます。私たちに広く普及している思想の一つとして、「充足理由律」というのがあります。全ての事に理由がある、という考え方です。


↓充足理由律についてはこちらも♪

pathofrogos.hatenadiary.jp

 風邪をひいたのは、昨日の湯冷めのせいであり、湯冷めしたのはゲームをしていたからであり・・・というように、人は何か物事が起こるのは、その前の状態に起因していると考えます。そしてそれは、自然な考え方と言えます。つまり、何かが起こるためには理由がある、ということです。

 

この説を支持するのであれば、時間はずーーーっと流れていて、変化しないときはなかった、ということになります。なぜなら、時間がなぜ止まったのか、またなぜ再開したのか(と、書いている今この瞬間時間は流れているように思えるので、過去止まったとしても、再開はしていることになる)の理由がないからです。

神様が気まぐれで止めて、気まぐれで再開した、としか言えなくなります。

 

なので、時間はずーーっと続いていたことになります。(ただし未来に止まってしまう可能性は否定できませんが。)人間がいようがいまいが、ずーーーっと続いているのが時間です。


時間は存在していないことの証明

反対に、「時間」は実は存在しないのだとする説もあります。マクタガートによる『時間の非実在性』の理論が有名ですが、ここでは著書のご紹介に留めて、哲学的思考をしてみたいと思います。

 

というのも、管理人の力量不足もさることながら、書き進めたものの非常に難しい分析哲学の議論になってしまい、「やさしい哲学」を目指すこのサイトに合わないと判断したためです。いつかわかりやすく説明できるようになったときに追記できたらいいなと思いますが(いつだ・・・)

 

マクタガートの理論は、現代でも賛否両論で議論されていますが、彼が証明したのは「時間は実在しない」という事実です。

 

確かに時間は、普通に考えれば存在していて、しかも「私」がいなくてもずーーっと存在しているように思えます。


しかしそれは本当でしょうか?それをどう証明できるのでしょうか?死後も魂みたいなものが残って、世界を見ているのだとしたら(その意見は支持しないし、したくもないですが)証明できることになりますが、死後に「あ、時間はずーーと流れてるんだ」と気づいたところで、それをどう現世の人間に説明できるのでしょうか?

 

少なくとも現代までの段階では、死者が時間の存在を説明してくれた形跡はなさそうです。ここまでくると、もう宗教的思想の領域に関わりますね。

 

時間は、どうやら私たちが考えていたように、私たちがいなくてもずーーっと存在している、と思うことはできても証明することはできないようです。

 

再び時間の概念を変えた現代の時間解釈

時間は流れ、過去には戻れないというのが私たちの一般的な概念です。 しかし近年、素粒子単位の小さな物体のふるまいを観察すると、時間が巻き戻ったとしかいえない現象も観察できるのだそうです。つまり「時間の不可逆性」は否定されているのです。(2018年の講義によりますので、最新の科学で変化はあるかもしれません)

 

また、量子力学を用いた時間の理解はまた変化したものになっています。それは、「人間がいるから時間がある」とでも言えるような理論です。

 

例えば科学的に、何か物質の温度をはかったとしましょう。しかし客観的な、その「もの」の温度そのもの、というのは測れないのだそうです。液体に温度計を入れれば温度は測れます。しかし、温度計を入れることで、実際の温度が若干ながら変わってしまいますよね。なので、「本当の温度」なるものは測れないことになってしまいます。

 

それは古い温度計だからでしょ、と思ってしまいますが、この原理を発展させて考えると、なんらかの実験をしたとき「人間が観察」したときとしないときでは、実験結果が違うのだそうです。

 

これは、世界は人間が観察することで、未来に変化が起きている、つまり人間が生きていくそのことが時間を作っている、という概念に繋がります。またこのことは、時間は一本の流れではなく、たくさんの人間のたくさんの選択肢で分岐した、たくさんの糸の束のようなという概念にも繋がっていきます。

 

・・・どっかで聞いたことあるような?そうです。SFとかアニメでよく使われますね、多次元世界、的な。

 

これはほぼ正しいだろうと現代科学でされている一方、しかし他の次元と交わることは絶対にないということもわかっています。絶対に永遠に交わらない他の時間の流れは「ある」と言えるのでしょうか??

引き寄せの法則」の出どころ

 人間が、観察することで未来が変わっていく・・・だとしたら、人間の思いが未来を紡いでいる、と捉えることもできるかもしれません。それが「引き寄せの法則」のベースですね。

 

もちろんそれを信じて幸せになった方はそれでよいのです。でも、「引き寄せの法則に効果がないのは、自分の思いが足りないから」と考える必要はありません(笑)

 

だって、科学のエッセンスのごく一部を拾いあげて話を盛っている(これを「エセ科学」とか「とんでも科学」とか言うらしいです(笑))に過ぎません。「科学的にそれが証明されている」と科学が述べているわけではないのです。

 

まあ、科学だけが全て「正しい」とは言い切れません。近いうちに科学とは何なのかも語ってみたいと思います。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

 


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人間関係に疲れた…心理学やスピリチュアルで解決しない悩みには

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Photo by RURIBYAKU

ロゴスの小径へようこそ。

世間には多くのスピリチュアル系や心理学の情報が溢れています。しかし、それで解決できない悩みも必ずありますよね。その場合は、実は人間「関係」が原因でない可能性があります。

心理学やスピリチュアルで解決しない悩みを何とかしたい

まず悩みの種類に目を向けてみましょう。人間関係の悩みなら、心理学が効果的です。もちろんスピリチュアルで効果があった!という方はそれで…あ、でもそもそもこのブログにはそういう方は、訪問してくださらないですね(笑)

 


 悩みが人間「関係」なら心理学は効果的

人間関係の改善には、心理学のエッセンスを取り入れることができます。例えば「朝の挨拶をしましょう」なんて会社や学校でも言われたりしますが、これは思うよりも重要だったりする、心理学的なエッセンスが含まれているものだそうです。

 

挨拶を交わすというのは、相手を認識する、つまり相手を尊重しているという態度の表れなのだそうです。理屈ではなく、最低限の挨拶ができている職場とそうでない職場では、コミュニケーションに差が出るのはむしろ自然に思えますよね。


心理学は、「関係」を築くためのお作法を教えてくれるとも言えます。ただしこの時の人間関係、とは文字通り人と人との「関係」の話です。

もし心理学的アプローチで人間関係が改善しないように思えるなら、それは人間「関係」の問題ではない可能性があるということです。そして管理人はむしろその確率の方が高いのではないかとさえ考えています。


その悩み、本当に人間「関係」の悩みですか?

人間「関係」の解消法は心理学の本などでわかった。でも、どうしてもそれができない!!なんてこと、ありませんか?管理人はあるあるでしたが・・・(汗)

なお、前置きしておきますが、ハラスメントなどの具体的被害があれば我慢する必要はありません。ここでは、ハラスメントで訴えるとまではいかない、でもたまに眠れないほど悔しい、のような場合について語ります。

 

心理学的視点や、なんらかのスピリチュアルの方法がうまく行かないような気がする時は、哲学的思考が役に立つかもしれません。ちなみに「かもしれない」というのは可能性が低いという意味ではありません。

わかる人には効果があり、わからない人には効果がないとも言えるかと思います。それは頭の良さだとか運の良さだとかそういうものとは無関係な、どこか「体質」としかいいようのない、「特性」みたいなものです。

 

スピリチュアルが効果的な人とそうでない人がいるように、哲学にも(たとえ哲学を学んだことがなくても)、それがしっくり来てしまう人がいるということです。

 

併せて読んでいただきたい!

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哲学色の濃い心理学系の著書もいろいろありますが、管理人の思考の転換になった本のひとつが、アービンジャー インスティチュートの『自分の小さな「箱」から脱出する方法』です。有名な本なのでご存知の方も多いかもしれません。

成功哲学の本のようなテイストではなく、ドラマ仕立てでやさしく書かれており、とても読みやすい内容です。設定が会社なので、特に会社の人間関係のお悩みに対しては理解しやすいと思います。

 

本の内容は、人間関係改善のための具体的なアプローチ方法です。いろいろなところで解説もされていますが、ここではその根源にある哲学的思考について語りたいと思います。そこが理解できれば、本の理解も早いからです。


内容の主軸は、人間関係のギクシャクは、それぞれが「自分」という小さな箱、つまり自分の世界観の中に閉じこもって生きているから起きる摩擦であるということにあります。

「~~するべき」と思ったら、いったん善悪は隣に置いてみる

私たちはそれぞれが自分の世界にこもっていて、それが世界の全てであるようにして生きています。けれど他の人、つまりその人にとっての「私」の世界観は、「この私」のものとは違います。あたりまえのことなのですが、普段私たちはそのことをほぼ忘れて過ごしています。

つまり、人間関係のギクシャクは、実は自分の凝り固まった価値観を、人に押し付けることで作り出していたんだということに気づかされます。ここが腑に落ちると、目からウロコで、本当に世界がガラッとかわります。特に会社を転々としても人間関係がどこかうまくいかないようであれば、原因が自分である可能性は高いです。


よく「相手の立場に立って考えなさい」なんてムカッとくるような教訓めいた言葉を耳にしますが(笑)、自分の世界(箱)の中の「正しさ」の基準に照らし合わせると、うまくいきません。ポイントはとりあえずいったん善悪は横に置いてみることです。

例えば、「Aさんは陰では部長の悪口を言うくせに、媚びを売って飲み会に参加している。そんなのやめるべき!と考える時、その「べき」はどこから来るのでしょうか?Aさんの方は、「会社ではコミュニケーションを円滑にするために、飲み会に参加するべき!」という「べき」を持っているのかもしれません。

ものごとを多面的にみることができると、生きるのが楽になる

これは「ものごと」を、多方面から捉えてみるということです。内容に納得するかどうかはいったん隣に置きます。

飲み会に参加・不参加は個人の自由。どちらが正しいわけではない。ただし自分の好みはある。そういうことですよね。

 

そこをいったん認めた上で、自分はこうすると決めれば良いだけなんです。「媚びを売らないことで、ヒイキしてもらう可能性がなくなるかもしれないけれど、私は参加しない」でいいわけです。そう考えると「媚びを売るべきではない」のは、Aさんではなく自分なのだということに気づきますね。だって、自分がそうしたいのですから。

媚びを売ってでもコミュニケーションをとるべきと思うなら、自分が勝手にそうすれば良いのです。飲み会に参加しない人を責める必要はありませんよね。

しかし、理論ではわかっても、なぜか自分と反対のことをしている人をみるとムカッときて、やめるべき、と思ってしまうのには原因があります。

それは、相手を実は羨ましいと思っているからです。うわーー認めたくない!w 

飲み会に参加したくないなら、本来参加しなければいいだけです。でも実は評価は得たい。だから参加して評価を得る(と想定している)人をみると、媚びを売りやがって!と感じてしまうのです。反対に参加した方は、本当は飲み会なんか参加したくないのに、自分だけ帰りやがってズルい!と思っていたりするわけです(笑)

双方相手を実は羨んでいたんですね。著書では、そこにお互いが気づくことで、人間関係は改善に向かうという心理学的アプローチを紹介しています。

 

そしてその根底にあるのは、「私」という括りから人間は出ることができないという哲学の根源的な問いです。「あの人はこう思っている」とかこうすべきだ、という全ては、自分の頭の中にしかないものです。「あの人」の中には一ミリもないかもしれないのです。人は自分と言うフィルターを通してでしか、世界を認識できないのですからしかたありません。

自分の価値観だけの中で他人を批判していたこと、相手を実はうらやんでいたんだと気づくことで、むしろ世界は開け、生きるのが楽になっていきます。

こちらもおススメ!

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ちなみに管理人は著書を読んで理解したつもりでも、しばらく人間関係に苦しんでいました。しかし深く思考していくうちに、ある時ふと「ああそうか!」と気づきました。気づく人はすぐに気づけると思います。

思考し続けることは非常に重要です。思考してもしてもしても回答はありません。しかし気づくことはできます。そこから世界が変わります。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

 

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日曜夜の憂鬱。「サザエさんシンドローム」は掃除で解決?!

「憂鬱の先取り」をやめてみませんか。

ロゴスの小径へようこそ。

職場の人間関係の悩みは本当に辛いですよね…。日曜の夜、憂鬱になったりしていませんか?「サザエさんシンドローム」なんて随分前に流行りましたが、あの軽快なオープニングソングを聞くたびに気が重くなってしまう方もおられるのではないでしょうか。

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「憂鬱の先取り」ってなに?

明日のことを考えて憂鬱になってしまう・・・。良くあることのように思えます。管理人も以前は本当にそうでした。最も辛い仕事をしていた時期は、サザエさんどころかアタック25が始まるあたりで鬱になっていました。

 スンマセン、例えが昭和すぎて(笑)。

 

しかし、ある時何かの本で読んで気づいたのです。(著書を覚えていません・・・ご存知の方おられたら教えてください・・・)

明日の悩みを今から悩んでも、明日になってから悩んでも同じことだ

 

と。いや、あたりまえといえばあたりまえなのですが、確かにその通りですよね。悩んで少しでも解決に向かうならいいのですが、ただ鬱々と過ごすだけなら何の意味もありません。憂鬱を先取りしても、辛い時間が増えるだけです。

それに気づいてからは、サザエさんを見ても鬱にならなくなりました、とスパっと切り替えることは難しかったですが(笑)しかし毎回「憂鬱…」と思うたびに、「いや、今から悩んでも時間の無駄だ!」と考えを切り替えるようにしているうちに、いつの間にか日曜の夜の憂鬱はなくなりました。

悩む時間が多いほど、脳に記憶されてしまう

「脳」は時にコンピューターに例えられたりもしますが、大変あいまいにできていることも知られていますよね。夢を見ている時に、それが現実と区別がつかなかったり、ドラマなどで見た体験も、自分の体験のように自分に取り込んでしまったり。

脳科学と心理学は密接な関係にあり、「心」(とは何かは難しいですが、ここでは一般的に「心」となんとなく思っているもの、とします)の領域が大きく影響しているのは疑う余地はありません。

 
明日の仕事憂鬱だな、月曜嫌だな、と思う時間が長ければ長いほど、脳に「それは嫌なもの」として刻まれていきます。英単語を毎日毎日繰り返すことで覚えるように、「憂鬱」も深く記憶されてしまうのです。

 

だから、なるべく憂鬱なことは考えない方がヨイと同時に、スパっとは無理でも、思い出すたびに「考えるのやめよう」と切り替えられれば、それもまた脳に刻まれて「切り替え上手」になっていくわけです。脳に学習させるわけですね。

座禅や瞑想、ヨガは脳科学的に理にかなっている

悩む時間を極力短くする方が、今日の悩み時間が減るだけでなく、脳科学的にも悩みの度合いが少なくなっていくわけですが、このことは最新の科学結果を待つまでもなく、人間は知ってきたということになります。

座禅などの瞑想で、頭を空にする・雑念を払うのは、理にかなっているということになりますよね。なんだかスゴイです。

ちなみに座禅も瞑想もちょっと…と思う方にも良い方法があります。人間は、頭を使わない繰り返しの動作をしているときも、瞑想状態にあるそうです。つまり、窓をピカピカに無心に磨いたり、文字入力を黙々と行ったりすることでも、瞑想効果があるそうです。

これ、すごくないですか?!お寺に行ったりお金を払ってそういう場に行かなくても(笑)、掃除ついでにとか、仕事しつつ瞑想状態が作れてしまうんですから!

 

ちなみにこのことは『スピリチュアル・ライフのすすめ』(文春新書、2010年)樫尾直樹 著を読んで知りました。「怪しげなスピ系」の本?!と思いきや、怪しくないデス(笑)。私はこちらの先生の講義を大学で受講していました。そこで正しい「スピリチュアル」とは何か、ということを学術的に学びました。このことについては、いずれ記事にしたいと思っています。

 

 

これは、ヨガも同じ原理になっています。ヨガでは呼吸を大事にしますよね。吸って、吐く。これに集中することが、余計なことを考えないで済むことに繋がっているそうです。(これは管理人が通うスポーツジムのインストラクターの先生がおっしゃっておられました。)

まとめ

「憂鬱の先取り」をサザエさんの時間からしてしまうと、辛い時間が増えるだけ。さらに脳にも辛い体験が深く刻まれていく。なので、なるべく忘れるようにしたい。忘れろといってもなかなか難しいが、瞑想やヨガで意識をそらすことができる。それができない人でも、掃除や頭を使わないPCの入力など、繰り返し作業で同様の効果がある。

いかがでしたでしょうか。日曜はまだ数時間あります(笑)日曜に限らずですが、明日の憂鬱は明日出社してから考えることにして、その分自分の時間を楽しみましょう!

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友達の中で自分だけ浮いているような気がする時

ロゴスの小径へようこそ。
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そろそろ忘年会シーズンですね。友達とワイワイ飲み会。楽しい「はず」なのに・・・。皆が楽しそうにしている中で、自分だけ浮いているような気がすること、ありませんか。その根源にあるのは「退屈」です。

友達の中で、実は自分だけ楽しめていない

友達との集まりは楽しみで、ウキウキ出かけます。でも、楽しんでいるのははじめだけ。1時間もするといつの間にかふと、どこか冷めた自分に気づく・・・。なんてことありませんか。もちろんそういうことがなく、楽しいままで終わればステキです。


楽しく笑っていたはずが、いつの間にか愛想笑いをして座っているだけの自分に気づいてしまうと、もうあとは帰ることが頭をかすめます。楽しいはずの場。なのになぜか楽しめない・・・。そして、周りからも浮いているような気がする・・・。

 

スポーツやイベント、カラオケなど目的のある集まりではそういうことは感じにくいと思います。また単なる飲み会でも、趣味のサークルなどの友達なら、共通の話題があります。

 

しかし、特に共通点のない集まり(管理人の場合には同窓会だったのですが)では、皆は楽しそうにしているのに、何が楽しいのか全くわからない。自分だけ輪の中にいないような感覚になることがありました。

まるでテレビや映画の1シーンを見ているよう。そこにいるはずなのに、どこか意識はそこにいないような。


二人の集まりでも同様に感じることはあるかもしれませんが、その場合は話を聞く必要や話す必要もあり、その場から自分を切り離すことはできませんよね。大勢の集まりでは、自分だけ話を聞かなかったり会話せずにいても誰も気づきませんから、よけいに意識が輪の外に出てしまうような気がします。

そんな飲み会にもかかわらずいつも参加していました。考えてみると、ちょうど大学に編入し学び出す少し前からで、思考が変わる過渡期の頃だったのだと思います。はじめはとても楽しくて嬉しくて、集まりの数人の幹事メンバーにもなっていたりして。それなのに、何回か出席を重ねるうちに、違和感を覚えてきました。

「皆笑ってるけど、本当にそれ楽しいの?」実は全員の一人ひとりが「ツマラナイ」と思いつつ笑っているのではないか、と疑うくらいの(笑)会話の内容…。

自分だけ楽しくないのは、自分の方に問題があるのだろうと考えました。意識を失うまで呑むような集まりだったので、お酒があまり呑めない自分だから浮いちゃってるのかな?とか、自分の性格のせいなのかな、とか・・・。しかしそれでも出席を続けていました。今から思うと、参加しないことによる疎外感が怖くて参加していたように思います。

 

しかし結局1年程度で参加を止めることにしました。参加しない疎外感よりも、参加して、どこか浮いている自分を感じる方が、苦しいと思うようになってしまったからです。

ステージ(世界観)が変わると友達も変わる

大学に編入して約1年。管理人の思考は180度と言ってもいいほど変化しました。そして管理人は、その定例になっていた集まりへの参加をやめました。思考が変わる前は、そのメンバーとのステージが同じだったのだと思います。だから楽しかった。

 

と言っても、大学に編入してオリコウになったからとか、皆さんとはグレードが違うのよ、なんてふざけた話ではもちろんありませんよ!!!(笑)

 

以前読んだ「スピ系」の本には、「友達が周りからいなくなる時は、あなたのステージが変わったから」的なことが書いてありました。なんと傲慢な!と思ったものですが(笑)変わったのは「ステージ」ではなく「世界観」と思うと納得です。

 

あたりまえのことです。同じ巨人ファンで集まって楽しく応援していたのに、阪神ファンに鞍替えしたとしたら。もう巨人ファンの話はつまらないだけですよね(笑)・・・なんだか例えが昭和ですが(汗)サッカーもラグビーも観ない管理人なのでスミマセン・・・

 

あなたがもし友達と馴染めないような気がするなら、自分を責める前にまず、周りの友達との世界観の違いを考えてみる必要があると思います。ポイントは「性格」の違いではなく、「世界観」の違いに目を向けることです。


大勢の集まりに限らず、友人も同様です。管理人はそれまでの友達はほぼいなくなるほど、誰と会っても楽しくなくなってしまったのです。話が合わないだけでなく、なんというか、一緒にいても楽しい気持ちになれないのです。恐らく友人の方もそう感じていたと思います。

自分の世界観が変わり、友達が変わる。するとまた世界が変わる!

その後管理人は、大学や哲学カフェで新しい出会いを重ね、友達が入れ替わったような状態になりました。おもしろいことに、旧友であっても以前は2人で会うことがないような、距離のあった友達が、今は頻繁に会うような友達になるケースもあるということ。

 

つまり、新しい出会いが重要と言うわけではなく、友達を選ぶ目線が変わった、という感じでしょうか。もちろんそれは、友達の方からみた自分も同様です。

話は単純で、巨人ファンから阪神ファンに鞍替えしたのなら、巨人ファンとより阪神ファンと飲んだ方が楽しい、というのと同じです。巨人ファンのままの友達は、阪神を褒めるようになってしまった元巨人ファンに、違和感を覚えるのはあたりまえですよね。

改めて言うほどもないほどあたりまえの話ですが、でも案外気づかないで過ごしてしまうのが、人間関係です。(だから心を病むまで気づけなかったりするのですが・・・)

 

「友達と合わせられない、浮いている、無理に合わせても楽しくない自分」というのを責める必要はありません。そうではなくて自分に合う友達と付き合えばいいだけだったんです。

 

同じような思考の傾向(管理人の場合は、根底に哲学を内包している人)の友達と会うと、時間を忘れるほど楽しめます。ツマラナイ飲み会に参加している時間の無駄だったことと言ったら!


この状況は誰でも陥ることがあります。有名な哲学者のハイデガーもこれについて考察しています。

集まりで楽しめない…その根底にある「退屈」

哲学者のハイデガーは「哲学入門」で、こんな例をあげています。


楽しいはずのパーティーで自分の退屈に気づく様子です。自分は退屈している、と気づいたとき自分は何をしていると思います?つまらなそうにしているなら、まだ救われます。

ほとんどの人は、集まりの場でつまらなくても愛想よく笑って過ごします。ハイデガーによると、人はいつの間にかパーティーの客を「演じて」いるような状態になっているというのです。

そう考えてみると、大勢の人が楽しそうに見える集まりでも、実は一人ひとりが演技をしている可能性もあります。怖いですね・・・(笑)もちろん一番怖いのは、自分自身が気づかないうちに演技をしていた、という状態です。


そんなことを続けていたら心が病むような気がします。自分がどういう感情にあるのかも気づかないでいるということなのですから。

もちろん仕事の場面では、そんな風に笑顔で過ごさなくてはいけない場面もあります。しかしそれはお金という対価と引き換えです。自分でお金を払って参加して演技をして帰るなんて、虚しいすぎますよね・・・。

 

自分はつまらない集まりには参加しないと決めているような人もたくさんいます。管理人もやっとそちら側になりましたが(笑)

どうしようかな、参加しようかな、と迷っているような会があるようなら、気づかないうちに自分が「演技」をしてしまっていないか、もう一度考えてみることをお勧めします。

 

自分が心底楽しめる時間を過ごしましょう!新しい友達に出会っていなくても問題ありません。一人で楽しめるツールは、現代ではたくさんあります。

 

最後までお読みくださってありがとうございました!

 

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哲学と心理学はどう違うの?

ロゴスの小径へようこそ。

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哲学を学び出してから、よく人に聞かれるのが「心理学」とどう違うの?ということです。心理学はもともと哲学から派生しています。まあ、全ての学問は哲学から派生しているのですが。哲学と心理学の根本的な違いとは、「この世界(地球)で生きていくうえで、役にたつかどうか」ということができます。

 

他者とのつながりをよりベターにする「心理学」

哲学と心理学の違いの一つに、この地球で人が生きていく上で、役に立つかどうかという違いがあげられます。心理学では「他者とどう接するか」をメインに成り立っています。「成功するためのマインドをどう持つか」などもありますが、結局「成功」とは、他者と比較してのものですから、やはり「他者」が想定されています。

仮に自分が世界でたった一人だとしたら、誰かの気持ちを探ったりする必要はなく、そもそも何をもって成功とするのかわかりません。人間たちの中で、どう振舞うのがベストなのか、を考える学問とも言えると思います。

心理学ではトラウマなども研究しますが、それだって他者とのかかわりの中で生まれる概念です。以前の心理学は、「こういう夢をみたら、実はこう思ってるんじゃないかな」のような、あやふやな部分もたくさんありました。

 

ちょっと古い心理学では、「こういう態度をとったら相手はこう思っている」ということの根拠になるのは「実験」によるものでした。しかし、心理学的な実験にはさまざまなフィルターがかかります。被験者はそれが実験とわかっている場合は特に態度に影響します。その差は微妙かもしれませんが、むしろ差があってあたりまえですよね。

 

例えば入社試験などで、「性格テスト」みたいなものをさせられることがあります。いくつかの項目の質問に「あてはまる・ややそう思う・そう思わない」などの選択項目があり、そこから選んでいくわけですが、入社試験と知りながら、「協調性がある」の項目に「そう思わない」をわざわざ選びませんよね。

 

人間には見栄というものがありますから、例えば「あなたは友達よりも容姿も能力も劣っている」などの質問に「まったくその通りである」とは(例えそうであっても)答えないそうです。それはインターネット上の匿名のアンケートであっても影響があるそうです。

ですから当然、リサーチする側はそのあたりを加味して集計するわけですが、それもパソコン環境が整ってからの話です。それ以前は被験者の申告通りに記述されてきたので、その結果の集計は実はあやふやなものでした。

しかし現代では、心理学は脳科学と密接になり、被験者が自分でも意識しない目の動きや脳内の反応などで心の動きを読み取っています。またインターネットの発達で、エビデンス(実験結果)がデータベースとして集計され、より多くの正確なデータが集まり、今の心理学の知識を作り上げているそうです。・・・と、大学で習ったのはもう7年ほど前なので、今日ではさらに知識は精巧になっていると予想できます。

哲学にも実益に繋がる哲学がある

それに対して、「役に立たない」と評判の(笑)哲学ですが、役に立つ哲学の種類と言うものもあります。

 

ビジネスで成果をあげるために役立つ「成功哲学」。患者にとってのよりよい医療の在り方を考える「臨床哲学」。その他にも、●●哲学、というかたちの哲学はたくさんあります。高校で習う「倫理」も、あるいはこちらのカテゴリに非常に近いと言えますね。それらは、実際に人生に役立つ思考です。


「科学哲学」というのもありますが、これは非常に「哲学」と密接な関係にあります。科学を哲学するとはどういうことかというと、「科学」というのは、この世界の客観的で、絶対的な世界のように思えます。また、そう思っていてもおおよそ間違いありません。科学は人間の利益・幸福のために発展してきました。

 

子ども時代、まだ未知とされていたことも今では解明されていたりしますよね。そんな風に、科学はどんどん「謎」だった世界を解明している・・・ように見えます。しかし、科学の発達がすべてポジティブだとはいえませんよね。

 

公害や、恐ろしい武器、また遺伝子操作など、科学を発展させていく前に、倫理はもちろん、根源的な意味で哲学が必要になるのです。これについては、かなり興味深いお話がありますので、近く記事にするつもりです。

 そもそも哲学とは

 哲学とは何かと言う定義は非常に難しく、哲学者によっても違うのですが、答えがないものを追求していくので、ある意味「役に立たない」ということになります。心理学と比較してみると、人間関係だけをテーマにするわけではなく、世界で一人であったとしても考えられます。

 

例えば、もし世界で人間が一人だったとしたら、「他人を傷つけてはいけない」というような倫理も不要ですし、他者とのコミュニケーション方法を学ぶ必要もありません。そう考えると、「不要なもの」「役に立たないもの」が逆転します。


しかし世界で一人、というような状況であれ、人間の根源的な問いは消えません。例えば「世界はなぜ存在するのか」「人間はどこからきたのか」「死後はどうなっているのか」などなど。答えはありません。しかし、問いとしては消えることがありませんよね。

 

そうか!それが哲学か!と思ってしまいますが、ここで立ち止まって見ると、一概にそうとも言えないのです。そもそも「人間が世界で一人」という状況など基本的にありえません。「ロビンソン・クルーソー」のように一人で孤島に漂着するといった稀なケースは想定できますが。

 
とすると、「もし世界で一人だったら」と考えることもまた、役に立たないと言えてしまいます。うーん。難しい。しかし世界はこのようなパラドクスを内包して成り立っているのです。

結局哲学は何の役にたつの?

これもまた難しいのですが、しかし、役に立たないからといって哲学を切り捨てることはできません。なぜなら、どうしても「哲学」してしまう人が少なからずいるからです。大学に行くかどうか、哲学書を読むかどうかなどとは無関係に、そういう人がいるのです。

なぜ世界は存在するのだろう。


神様が創った、としない限り答えはありません。だから考えても無駄です。でも、それでもどうしても考えてしまう。「真実」を知りたくなってしまう。これは、人間に埋め込まれた「性質」だとも言えるでしょうね。おそらく、このブログを訪れてくださる方も、そういう一面があるのではないでしょうか。

近年、哲学を学ぶ人が減って、大学でも哲学科が少なくなってきているそうです。どんどん世界は「役に立つ」情報だけで埋まっていくのでしょう。

 

情報も取り入れている、友達もいる、仕事もしたいことがそこそこできている、家族もいる、楽しく暮らしている、はず、なのに。それでも世界の「存在」の意味を考えると、足元が一気に不安定になってしまうような感覚になる「哲学体質」の人はますます生きにくくなっていくんだろうなと感じます。


そういう方が、このブログにどうかたどり着いて、そして知って欲しい・・・。同じように世界にある意味の空虚を感じている人がいることを。心理学では幸せになれない人に、哲学という道があるということを、知ってほしいです。管理人がそれで救われたように。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

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「スピリチュアル」では幸せになれなかった気がする方へ

ロゴスの小径へようこそ。

先日テレビの「思い出の曲」みたいな感じの特集で、「トイレの神様」が取り上げられていました。そういえば大流行しましたねえ。当時はトイレ掃除がだいぶ流行ったそうですが(笑)、あっという間に流行は終わりましたね。

 

トイレをピカピカに磨いたり、やたらめったら(笑)「ありがとう」を乱発することで幸せになれたような気がしないのはなぜでしょう。「法則」通りにできなかったからでしょうか?それとも信じ方が足りないから?それは、方法自体ががあなたに合っていなかったということです。


「スピリチュアル」では幸せになれなかった?

 

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まず前もってお断りします。管理人は「スピリチュアル」を否定するわけではありません。「宗教」は人を幸せにしているのだと心から思いますし、信じるものがある人は、それだけで生きるのが楽になる「勝組」だとさえ思っています。

 

なおスピリチュアルは宗教ではない、と言う方には『文化と霊性』梶尾直樹 慶應義塾大学出版会をお勧めしたいです。この件についてはまたいずれご紹介いたします。

 

いろいろ実践しているのに、夢が実現しない

「スピリチュアル」で幸せになれたという方はそれでいいのです。ここで取り上げたいのは、いろいろ実践してみたのに、夢が叶わない、効果を感じないという方です。

 

単に、「やっぱりそんなものはなかったんだ~」で済めば、努力は無駄になったとしてもプラマイ0ですからそんなに被害はないと言えますね。お布施を要求するわけでもないですし、「スピリチュアル」系の教えで、お金をかけろ、というようなものを私は見たことがありませんし。

 

問題は、マインドです。私が読んだ(おそらく20冊程度。…恥ずかしながらはまっていました…)「スピ系」の本には、たいていこんな感じに書いてありました。実践しているのに実現しないのは、「信じ方が足りないから」と。

悪いのは「方法」ではなく、「私」のせい?
 

「効果がなかったのは自分のせい」と思い心を痛めるくらいなら、はじめから何もしない方が良かったと思ってしまいます。

しかも、「毎日スクワットをしなかったから」「毎日英単語を覚えなかったから」というような内容であれば、目標に届かなくても納得がいきますし、次に何をすればいいのかもわかります。

 

けれど、「信じ方が足りなかったから」というような指摘はあまりにもあいまいです。なんにでも適応可能な便利な言葉です(笑)し、次にどうすればいいのか全くわかりませんね。

 

実際それが、「効果」があるのか無いのかは、科学的に証明できないので言及できませんが、少なくてもこうは言えます。

 

それは自分に合わない方法だったのだと。

 

自分を責める必要は皆無です。

友達が、この化粧品いいよ、と紹介してくれたとします。でも自分には合わなかった。あなたはその時、自分の体質が悪いんだ!と責めたりしますか?それとも「これは自分に合わなかった」と思いますか?

 

その方法が合わなかった方には、他の方法があると私は思います。方法といっても「幸せになれる方法」などは存在しません。それは「自分が幸せだと思ったから」以外にないのですから。

 

そこで私が出会ったのが「哲学」でした。・・・というと、怪しげな「スピ系」の販売みたいになっちゃいますが(笑)、そうではなくて大学で習うアカデミックな哲学です。

 

義務高校で習う「哲学」とは、ほとんどが「倫理学」(哲学のカテゴリーの一つ)ですから、それを「哲学」と思い込み、「なんか違うー」と哲学を学ばない人も多いのではないでしょうか。私がそうでした(笑)

 

「哲学」は、人類が思考を始めたころから延々と続く人間の根源を問う営みです。つまり流行に左右されません。古くなった思想でも、現代の最先端の思想の元になったりしています。「なつかしの曲」のように風化はせず、常に思想の中に生きているんです。

 

哲学に合うタイプの人がいる

とはいえ、残念ながら「スピ系」でうまくいかなかったから、「哲学」で心が救われる、というものではありません。理由はわかりませんし、絶対数は少ない(少ないからこそ大学の哲学科が減少しています)けれど、なぜか哲学せざるを得ないようなタイプの人がいます。

哲学者の中島義道さんはそれを、「哲学的体質」と著書で述べておられました。哲学的(哲学的、とは科学的という意味でもあります)に考えれば、親など幼少時からの周りの人の影響と言えると思いますが。私の大学の先生は「性癖」といえるとおっしゃっておられました。同じような意味合いかと思います。管理人はそれを「哲学体質」と呼んでいます。

合うか合わないかは、知ってみるしかありません。しかし、「哲学っぽいことを考える」ことと、「哲学する」ことは、似ているようで違います。少なくとも、哲学書を踏まえ、思考法を学ばなければ根源的な部分を理解することはできません。

 

なぜなら、世界はこんな風にできていると思う、と思考するだけではなく、実際、科学の最先端では「宇宙」はどう理解されているのかなどの、基礎の知識も必要になるからです。

 

また、「言葉」(ロゴス)も重要視します。もちろん「世界」は、言葉で語れないような部分が実は多くあります。けれど、理論的におかしいこともたくさん紛れ込んでいます。言葉で正確に表現できないことの多くはあやふやなことなので、そこを排除するために、言葉が必要になります。

 

そうでなく、ただ思考するだけ、ただ自分がこう思う、というだけでは「スピ系」と同じになってしまいます。

 

そんな少数派の(笑)「哲学体質」かもしれない人に、その可能性を伝えたいし、「哲学体質」の人と出会いたい。それが管理人が情報を発信する理由です。(密かにミッションだとも思っています。)

 

哲学体質ってこういう人

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とは言っても繰り返しますがそれで幸せになるわけではありません(笑)。むしろ世界の虚しさを噛みしめることになる感じです。けれど、虚しいからこそ、だからこそ安心するんです・・・。「心の空洞」は、実は人類全員が持っているものです。それに気づく方が生きやすいのか、気づかない方が生きやすいのか、の差のように思います。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

 

 

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「夢」や「目的」を持たずに生きる意味は?

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「目的」や「夢」を持って生きる「べき)だと言われがちです。それに向かって「より良く」生きることが、本当に「正しい」ことなのでしょうか。

「目的」を持たずに生きたい

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旭岳ロープウェイからの紅葉。夢のようでした。

ここ数年、そのことを念頭において生きています。実は管理人は、他にも旅のブログを運営しているのですが、そこに目的もなく、ただ旅をするように生きたい、というようなことを書いたら、「平成生まれの怠け者」というような酷いコメントをされたことがあるのです。(・・・昭和生まれなんですが・・・汗)

なぜ目的や夢が「必要」なのでしょうか?

なぜ目的や夢を持つことが素晴らしいと思いこんでいる人がいるのか、というと、そのように教育されて生きてきたからです。努力して目標に向かえば夢が叶う世界。バブルの頃には、多少そんな片りんもあったのかもしれません。また、夢に向かって努力して仕事をしてくれれば、経済が潤いますから国の経済政策にも適っています。

そのようにして教育されてきた世代には、これはある種の「呪い」です。 最近の教育ではその傾向が薄いようで、若い人にはその「呪い」がかかっていないそうです。中学校の教諭をしている友人によるとやはりその傾向にあるそうです。そういえば会社の新人さんも、「夢とか特にないです」と言っていました。

 

私はそれに対して、昔なら「なんで?!若いのにもったいない!」とか思ったかもしれません。今は、「夢」や「目的」を目指すことが素晴らしいとは思えていないので、夢がなくても別に不幸なわけではなく、楽しく生きているんだなというのが理解できます。

もともとはキリスト教思想から 

そもそも、目的にまっすぐ向かうのがヨイ、とする思想のベースはキリスト教です。といっても、教義、というわけではないですよ。それをベースにして作られた思想という意味です。死後の審判に向かって、より善く生きて、神の国に到達する、というような一本の道筋で時間をとらえるような思想。今の私たち日本人はそれをベースにした時間の捉え方をしているんですよね。

先日ここにも書きました!

pathofrogos.hatenadiary.jp

キリスト教徒ではないので、死後に神様の国にはいけません。なのに、そこに向かうという「目的」に向かって、何の意味があるのでしょうか…。

もちろん、夢や目的に向かって心から楽しく生きている人は素晴らしいと思います。羨ましいですし。私もそうして生きてきたつもりでしたが、実はそうではないことに気づいてしまったのです。自己実現だとか、夢に向かう、とか耳ざわりの良い言葉に乗せられていただけだったんだ、と言うことに・・・。

小さな目的や夢はありますよ?もちろん!でも、一生をかけて貫くような目的がなくても、別に何の問題もないんですよね。まあ、こう言ってしまうと負け惜しみ、みたいに取られがちですが(笑)そして、それも含まれていないとは言いきれませんが。

「青い鳥」を探す必要はない

そもそも、青い鳥を探すことも、幸せはもともと自分のところにあった、的な理解も、物語のお話です。今の自分を幸せだと思い込む必要もないし、青い鳥を探す必要もなかったんです。いえ、繰り返しますが、探したい人はそれでいいのです。そうではなくて、いつの間にか、自分も探さなきゃ!と思い込んでいること自体が怖いことだと思うのです。

 

そこで目的を持たずただ自分を生きたい、とか思うのですが、これが案外難しくて呪いの深さに驚きます。ブログを始めれば毎日書かないと!とか、ランクを気にしたりとか、いつの間にか目的を持ってしまっていたりして。

 

目的を持たず、だた生きるのが幸せな状態。考えたことありますか?私にとっては、犬と暮らすことがそうでした。ただただ一緒に暮らすこと自体が幸せで目的はありません。あとは旅行。旅行に目的はなく、ただそれだけで幸せな時間です。あとはお風呂かな・・・(笑)こうして考えてみても、幸せな気持ちになります。

 

目的を持って生きなさい、と言われて夢や目的を探しがちに生きてきた方は、たまには、自分にとってただ生きるのが幸せな状態ってなんだろう?と考えてみるのはいかがでしょうか。それは思いのほか、自分を幸せな気持ちにさせてくれるかもしれません。だって努力を伴いませんから。

最後までお読みくださってありがとうございました。

 

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風が吹けば桶屋は本当に儲かるのか?

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「全ての出来事には理由がある」って、どこかで耳にしたことがありませんか。なんだか深い格言のように聞こえてこの世の「真理」を表している哲学的な言葉に聞こえます。

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全てのことに理由はある?

しかしこれは、充足理由律という一つの「思想」、アイディアです。これをこの世の法則だと捉えてしまうと、恐ろしいワナにハマることもありますので注意が必要です。(笑)

 

そういう私は随分長い間騙されて来たわけですが・・・。例えば「今日体調がイマイチなのは」←「昨日夜更かししたせい。その原因は」←「ゲーム」←「10年以上前のRPGの中古が300円だったので買ってしまった」←「楽天のお買い物マラソンで10店舗必要だった」←・・・・←・・・・←

 

・・・というように、なんでも原因を辿って行けるという考え方です。(実話)まあ、「風が吹けば桶屋が儲かる」の原理ですね(笑)この世は全てなんらかの因果で繋がっているというような考えです。

 

寝不足くらいならいいのですが、友達の輪に入れない←話題についていけない←必死にネットで話題を確認する←確認したがつまらない←つまらないのは自分がどこかおかしいから←自分自身がつまらない人間なんだろう←つまらないのは努力が足りないから
・・・・

 

などなど、自分で考え込むと、暗い原因に落ち込みかねません。就職失敗、失恋、受験失敗などなど原因を辿って行くと結局、自分を責めるか相手を恨むかに辿り着きそうな気がします。

 

自分が勉強できなかった←親の遺伝もしくは親の収入の影響←生まれたこと自体←

 

となると、生まれ持った不平等を恨むことになりますが、そう信じてしまったらもう、怒りのぶつけようがないですよね。

 

物理学の概念が、人間の営みにも適応されている

こんな風に、この世の全ては因果関係で繋がっていると考えることを「充足理由律」と呼ぶのです。確かに、一見正しそうに見えます。

 

私が今日頭痛がしたのは、寝不足だからであり、寝不足なのは夜中までゲームをしていたからであり、レベルをあと一つあげるまで続けたからであり(・・・虚しくなってきた・・・)

 

しかし、この世の全てはそんな風に繋がっていません。いえ正確には繋がっていると証明されていません。この思想のベースは、物理学のエネルギー保存の法則によります。

 

抵抗のない場所で転がる玉を突いたらすぐ次の玉にぶつかります。その玉がまたその次の玉に・・・というように運動は消滅することなく延々と続くかのように見えます。これは古典的物理学の思想で多くのモノのふるまいはこんな風にできているので、モノ以外の出来事も、そうなっているだろう、と思い込んだ結果が

 

全ての事に理由がある、に繋がっているわけです。

 

しかし、近年だいぶ当たるようになってきた天気予想でさえ雲や風や日にちなどを高度に計算しても完全に予想することは不可能だそうです。科学の世界であってもそういう状態なのに、どうして、人間の行動の理由を遡れるでしょうか?

 

例えば交通事故で人を殺してしまった。その原因を警察で尋ねられたとしましょう。←飲酒運転が原因←お酒を飲んだのは仕事が辛かったから←仕事が辛いのは、上司にパワハラにあっているから←その上司は、家で介護に追われており精神的に追い込まれて部下にあたってしまう←介護することになったのは、実は医療ミスから←その医者は、手術前日遅くまでゲームをしていた←古いRPGについのめり込み・・・(そこか!(笑))

 

・・・もはや原因はなんだかわからなくなってしまいますね。

 

本当に酷い犯罪者がいて、その幼少時の境遇、などに遡ると誰が犯人か?がうやむやになりそうです。これ、というはっきりした原因は人間の営みの中では辿れそうもありません。

 

もちろん、失敗の原因を辿ってそこを改善すればうまく行くことの方が多いと言えると思います。体重が増えたらダイエットすれば痩せるわけです。勉強すればテストの点もあがるわけです。買い物をすれば持ち金は減るし、その反省から生活の改善も図れると思います。

 

理由が決められないことの方が実は多い

しかしこの世の全てに原因を求めると神様を信じるしかなくなります。だって「この世界」はなぜ存在しているのか?という事実に目を向ければ少なくても今の科学では答えは無いので、「わからない」というか「神様が創った」の二択になりますから。

 

神様なんか信じないよ、と言ったところで「わからない」を「信じる」ことになるだけです。

 

人生を振り返り、あそこでああすればよかった、あそこであっちを選んでいればこうなったのに、と思うのは今から振り返って、物語を繋いで考えているからというだけです。過去を繋いでいくと、「因果」があるように見えるのですが、その時、そちらを選んでいたとしても思い通りの「今」になっているという確証はありません。

 

失敗したときの反省は先の予防に役立つのに対して、後悔に意味はないとは、このことです。まあ、だからどうしろ、と言った教訓的なことはこのブログにはないのですが(笑)

 

私が大学の講義やそこから自分で学んだことでそれまで知らなかった世界が開けたので

ご紹介させていただいています。何かの思考のきっかけになれば幸いです。

 

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いま、ここ。(時間論1)

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「 いま、ここ」っていつ?どこ?

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「かけがえのない時間を大事にする」よく耳にしますね。そしてその通りだなと本当に思います。死んでしまったらもう終わりなのですから当然です。生きているこの時間を大事にしなくては。大事にするとは何を指すのかは人それぞれですが。

 
管理人は知りたい。少しでも、「この世界」のことを。それは永遠に知り得ないことです。それでも少しでも真実らしきものに近づきたい。
「時間」とは何かを、説明できますか?
ところで、そもそも「時間」っていったいなんなのでしょうね?「誰もが知っているようだけれどそれが何か説明しろと言われるとできない」的なことをアウグスティヌスが言っていますが、まさにその通りだということに、驚かされます。

だって、時間って目に見えません。時計や太陽がないとあとは腹時計だけです(笑)でもそれも人によってバラバラですよね。楽しく過ごす時間は短かったりするのも不思議です。でもあとで思い出すと楽しい時間の方が長く感じたりもするそうですよ。
 
よく考えてみると時間というのは「概念」としか言えませんね。そしてそれは、「この世界に神はいるのか?」 と同じくらい、理論では説明できないものなんです。
 
私は大学で学ぶまではそんなことを疑うこともせずに生きていました。世界には、過去から未来に繋がっていく一本の線のような時間というものがあるというような、ぼんやりとした時間の概念の中で生きてきました。
 
いえ、いまも油断するとその概念の中に戻ってしまうのですが。その観念は、キリスト教の思想をベースにした世界観から来ています。ざーーーっくり言うと、人類はだんだん文明を取り入れ発展し、いずれは神の国に至ると言ったような。(ただしこれがキリスト教の教義というわけではありません)
「時間」の捉え方はこんな風に植え付けられています。
古代ギリシアや仏教では時間の捉え方は本来違うのですが、現代では(少なくても日本では)仏教徒を名乗る人でさえキリスト教的時間軸の概念で生きていますね。
 
西洋文明が日本に入った時期を考えると、ごくごく最近の思想なんてすよね。それまでは「子の刻」とかざっくりした時間を太陽に合わせて決めていたわけで。
 
時間とはそもそも世界の普遍的かつ科学的に定義できているものではないのです。物理学的にはアインシュタインの「絶対空間、絶対時間」という概念の中で私たちは生きています。
 
世界にはまず空間というイレモノがあって私たちはそこの一部を占めて存在しています。なので、座標で位置も表せます。ずーーーっと同じ場所にいないのは私たちが運動するからであり時間によって変化するからです。時間が止まったと仮定すればずーーーっと同じ場所の同じ空間を占めるということになります。
 
なんら違和感はない、小学生でもわかる概念ですね。だって、そう習いますし。それで日常生活に不便はありません。だから義務教育ではその先を教えてくれません。その先は、生きるのに不要な知識とも言えるからです。
 
ちなみに本当に頭の良い人とは大学に行かないでも知識を理解できる人だと私は思っています。大学に行くと、自分では考えもしなかったいろんなことを学ぶことができます。しかし、書物を読んだり思考すれば得られる知識でもありますから、頭の良い人は
知識を一人で得てしまうんですよね。学校なんか不要です。凡人の私は手っ取り早く大学で勉強していますが(笑)
 
話を戻しますと、宗教であれ物理学であれ、そういう誰かの創った概念を信じてその中で私たちは生きているわけです。それでまったく不便はありません。
 
便利でなくてもいい。本当のことが知りたい。
 でも、それじゃなんだかスッキリシナイ本当のところはどうなの?!というのが気になって仕方ないのが私が考える「哲学体質」の人だと思っています。
 
誰かの決めたルールで生きるのがどこか生きにくい。それしかないのだとしても、そもそも誰かが決めたルールでしかないということを認識するだけで違うような気がするのです。
 
だいたい耳ざわりの良い何か格言的な言葉にはたいていウソが潜んでいます。誰かに都合の良いウソが・・・(笑) 
 
「いま、ここ。」なんていう言葉を簡単に使うなら、いまという意味もここという意味も全く吟味せずに、ただ「いい感じ~」と使っているだけということになりますね。もちろんそれでもいいのですが、そういう人は、意味も分からず他人の概念の中で騙されて生きて、死んでいくのでしょうね・・・。
 

つい辛辣なことを言いたくなるのは、自分がそういう人間だったからです。人生の全てが黒歴史です(笑)

哲学的な、「時間」とは何かの思考法

だいたい、いまっていつでしょう?3秒前は「いま」ですか?1秒前は?0.5秒でも過ぎたらそれは過去ではないのでしょうか?となると「いま」という定義自体とても難しいものであることに気づきます。(ここ、も難しいのですがとりあえず今回は「いま」について考えて行きたいと思います)

 
しかし時間は、いま・いま・いま・いまという細切れには感じられずやはり一本の線で繋がっているように感じますよね。ということはどうやら私の時間は、私の記憶と関連してくることになります。


そういえば、他人と自分の時間の長さも実は違うかもしれないですよねえ。やはり世界は、どうやら自分がそうだと思い込んできたものとは随分違って出来ているようです。時間についてはまた近いうちに思考してみたいと思います。

 

最後までお読みくださってありがとうございました。

 


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「価値観」に気づくと、少しだけ楽に生きられます

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先日友人と会話していてふと気になることがありました。娘さんの結婚式に「留袖」を着るのが面倒だ、というのです。「着なければいいのでは」というと、かなり驚かれて「そんなのあり得ない!!」と言われてしまいました。


「価値観」で自分自身を縛っていませんか?

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自分を(精神的に)縛るのは他人ではなく、自分自身です。小さな価値観、世界観の中で生きている人を見ると、気の毒にすら思えてしまいます。以前の自分を思い出して。

 

自分の小さな世界の中で生きると、息苦しくなります

「あり得ない」と言われた管理人は友人に、「私の時は、面倒だから親には着ないでいいと言ったよ?」というと、まるで犯罪者を見るような軽蔑のまなざしを向けられてしまいました(笑)本人はそんなつもりはなかったとは思いますが。

 

昭和初期ならいざ知らず、今時、留袖を着ないと「いけない」ということ自体もうかなり古いように思うのですが、それはさておいても着ないと「いけない」とはどういう意味でしょうか。

 

私はピンクが好きなのですが、ピンクのブーツを履いていたら「その年でピンクのブーツを履いてはいけない」というように言われたことがありました。


自分自身の価値観を人に押し付ける典型ですね。押し付けられた方はムカッと来るかもしれません。以前の管理人ならキレていたかも(笑)。でも今はそれより、世界観(価値観)に縛られて生きている彼らを気の毒に思ってしまいます。どんなにか生きることが息苦しいことかと想像してしまうのです。

世界に「絶対いけない」は存在しない。ただしルールはある。

もちろん、自分が好きで留袖を着るならそれはそれでいいのです。しかし嫌で嫌でしかたないのに「着ないといけない」という「世界観」の中で生きている友人は、なんて窮屈な世界の中で生きているのだろうと感じてしまいました。

 

例が「留袖」なので、そんなの着ないといけないわけがない!と思われるかもしれません。しかし誰もが「当然するべき」と思うようなことでも、案外実は「いけない」ということはなかったりするのです。

 

もちろん「してはいけない」ことは存在します。それは、地球に住む皆で(厳密には国ごとに)決めた「ルール」だからです。つまり、世界の普遍的な禁止事項など存在しませんが、ルールはあるということです。

 

人は一人では生きては行けない以上、ルールは守るべきですよね。例えば信号。信号無視は神様が決めた、普遍的な「してはいけないこと」ではありません。でも、車が行きかう赤信号では立ち止まって待つのが「ルール」です。


友人にはその他にも「結納」はしないといけないというルールもあるようで、「面倒だから、しなかった」というと更に更に驚かれました。なので、費用が三割引きになるという理由で結婚式に「仏滅」を選んだことは言えませんでした(笑)

怖いのは、自分の世界観に気づけずにいること

人は自分でも気づかないうちに「植え付けられた価値観」の中で生きています。自分で決めた自分の価値観だと思っていても、時代や、親や、メディアや、友達などなど、いろいろな影響を受けた寄せ集めのようなものです。

 

誰しもがそういう世界観の中で生きているのですが、それと意識できるか、できずに生きるかでは大違いです。


講義で先生がこんなお話をしてくださいました。「なんのために勉強するのか」は、「世界観を変えるため」だそうです。いろいろな世界観を知ることで、自分も一つの価値観の中にいるということに「気づく」ことができるんですよね。

 

そこに気づけないと、植え付けられた価値観の中で生きていくことになります。例えば「SNSの友達が多い方が幸せだ」とか「流行りの●●を持っている人の方が幸せだ」といったような世界の中で。もちろん、それで幸せだというのであればそれでいいのですが。

自分の信じてきた価値観が、「真理」「真実」とは限りません。

 この世界に普遍的な「真理」はほぼありません。一見そう見えても、時代によって変化します。

例えば確かに昭和初期なら結婚するなら「結納」をするのが当然の価値観だったのでしょう。けれど、今はむしろ結納をするのは少数派なのだそうです。そもそも、よくよく考えてみれば結納という儀式はいったいいつ始まったのでしょう? 明治?江戸?平安?では弥生時代は?縄文時代は???

以前は年賀状を出すのが当たり前で常識で礼儀でした。しかし現代は、エコロジーの観点からも、ただ印刷して出すだけの年賀状を「出すのが常識」と捉える人の方が少ないのではないでしょうか。


昔の価値観が全て正しいのならお国のために子供まで戦いに行かせるような思想が正しいことになるのでしょうか?「女子供」より男性の方がエライのでしょうか?

 

価値観は時代によって変わります。そしてそれは時として「お国のために子供まで戦う」という価値観のように「植え付けられる」危険性のあるものです。そう考えてみると、自分の持つ価値観も、植え付けられている可能性があるのではないか、と疑うことは重要なことだと気づきますよね。

自分の意見だと思っていたのが実は誰かの価値観だった、なんて「自分を生きる」ことにならないと思ったりするわけです。さらに、男は男はエライ、という価値観の中で男性が偉そうにしている、というだけならまだしも、女性自身がが「男性の方が偉い」と思い込んでしまうような怖さがあります。

 

価値観を破ることのできる女性たちの努力のおかげで、今は以前に比べれば男女の差は少なくはなってきています。(もちろん格差はすごいと思います。あくまでも以前と比較して、です)

 

しかし、女性の中にも「男性の方がエライ、というけれど、家庭の中では女性の方が偉くて、ダンナさんを手玉にとっているんだから、それでいいのよ」と言ってしまう人もいたりするわけです。(とはいえ、近年そんなことを言うような人は滅多にいませんが・・・(笑))

 

一瞬騙されそうになりますが(笑)その思考自体が、男性によって作られた思考だそうです。そう思わせとけばいいだろう、と甘く見られたわけですが、まんまとひっかかった感じでしょうか。

 

騙す側にも非はあるでしょうけれど、騙されていることにも気づかず、そんなセリフを口にするのを見ると騙される側にもやや問題があると思えなくもありません。

 
「夢を持って生きなさい」とか「目標を持ちなさい」とか、それもまた偏った価値観でしかありませんよね。だって、それは「幸せになれる」というような普遍的なルールではないですから。

 

ちなみにその価値観でトクをするのは「政府」でしょうか。経済効果に有効なので、そのようにキャンペーンしてきたわけで、まんまとひっかかってしまったのが国民、という図式になります。

 

小さな価値観の中で生きていることに気づくと、楽になります

自分が、何を信じ込まされているのかに気づいたうえで、それでも結納がしたい、夢を持ちたい、と決めることが自分らしく生きる、というような意味に通じるのではないでしょうか。

 

同様に、したくないことはしなくてもいいということになります。「ルール」には従うしかありませんが。流行りだからといってインスタをやらなくてもいいわけです。

 

ただ、自分は違う意見でも、それを貫かなくてはいけない、というものではありません。へんなのーと思っても他のママ友が子どもの卒業式に黒を着ていくなら黒を着ればいいのです。だって楽ですもん。

 

でも、それが自分にとって譲れないものならば全員黒を着る中で、白を着たっていいわけです。「ルール」があるわけではないのなら。

 

その代わり、いろいろ言われますよ。マイノリティはいつでも攻撃されますから。着たい服を着てるだけで、悪いことしてないよ!と言える人だけが、着たい服を着れるわけです。(笑)

 

自分が謎の価値観の中で生きていることに気づくといろんなことが楽になります。そのうえ、価値観の中でがんじがらめになって生きている人を見てこっそりほくそ笑むこともできます(笑)


植え付けられた価値観の中で生きるのは学校はもう卒業したはずなのに、謎のブラック校則を勝手に続けているようなものです。もちろん法律になくても「常識」というようなものもありますから一概に古い価値観が悪い、というようには言えません。

 

しかし、一歩立ち止まり、それは本当に常識なのか?と疑うことが重要なのです。結納は常識、と思っていたら案外しない方が常識、となっていたりするわけですから。

 

誰かの価値観の中で生きるのはある意味楽です。けれど、何か違和感を感じるなら、自分の感覚を信じて、その価値観の方を疑ってみることも大切なのではないでしょうか。管理人はその発想の転換で生きることが少しだけ楽になりました。

 

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初めてお越しの方へ

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【ブログについて】

このブログは2012年に「はてなダイヤリー」で開始しました。
 2019年に「はてなダイヤリー」廃止のため、現在の「はてなブログ」に引越ししたものです。

【管理人について】

グラフィックデザイナー/イラストレーターをしつつ、日本画家活動をしている瑠璃白(るり・びゃく)です。社会人ですが大学に編入し、哲学を学んでいます。

【こんな方にお伝えしたいのです】

*毎日幸せなはず、なのにどこか心に空洞があるような気がする。

*人が大好き。なのに一人でいたいと思ってしまう。

*このままではいけない気がする。でも何をしたらいいのかわからない。

*スピリチュアル的なことを試したけれど続かない。

*スピリチュアル的なことを実は心から信じ切れていないのかもしれない。

*「良い」と言われていることを次々試してしまう。

*「目標をもって生きる」ことに実は疲れてしまっている。

*自分を醒めた目で見ているもうひとりの自分がいるような気がする。

 

管理人もいろいろ悩み、試行錯誤しつつ生きて来ました。そして、大学で哲学を学ぶうちにぼんやりと、「楽に生きられる」ようになったような気がするのです。

「スピリチュアル」で幸せになれなかったような気がする人には、哲学が助けになると管理人は考えています。一緒に考えてみませんか。ロゴスの小径、思考の森へと続くその深い緑の中で。

 

※ロゴスλόγος…言語・論理・真理。論理的に語りうるものなど、様々な意味があります。真理のようなものは語り得ませんが、そこへ至ると信じる小径を歩んでいきたいと考えています。