ロゴスの小径 ~心の空洞を埋める方法~

やさしい哲学が、あなたの世界観を変えます。

「価値観」に気づくと、少しだけ楽に生きられます

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先日友人と会話していてふと気になることがありました。娘さんの結婚式に「留袖」を着るのが面倒だ、というのです。「着なければいいのでは」というと、かなり驚かれて「そんなのあり得ない!!」と言われてしまいました。


「価値観」で自分自身を縛っていませんか?

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自分を(精神的に)縛るのは他人ではなく、自分自身です。小さな価値観、世界観の中で生きている人を見ると、気の毒にすら思えてしまいます。以前の自分を思い出して。

 

自分の小さな世界の中で生きると、息苦しくなります

「あり得ない」と言われた管理人は友人に、「私の時は、面倒だから親には着ないでいいと言ったよ?」というと、まるで犯罪者を見るような軽蔑のまなざしを向けられてしまいました(笑)本人はそんなつもりはなかったとは思いますが。

 

昭和初期ならいざ知らず、今時、留袖を着ないと「いけない」ということ自体もうかなり古いように思うのですが、それはさておいても着ないと「いけない」とはどういう意味でしょうか。

 

私はピンクが好きなのですが、ピンクのブーツを履いていたら「その年でピンクのブーツを履いてはいけない」というように言われたことがありました。


自分自身の価値観を人に押し付ける典型ですね。押し付けられた方はムカッと来るかもしれません。以前の管理人ならキレていたかも(笑)。でも今はそれより、世界観(価値観)に縛られて生きている彼らを気の毒に思ってしまいます。どんなにか生きることが息苦しいことかと想像してしまうのです。

世界に「絶対いけない」は存在しない。ただしルールはある。

もちろん、自分が好きで留袖を着るならそれはそれでいいのです。しかし嫌で嫌でしかたないのに「着ないといけない」という「世界観」の中で生きている友人は、なんて窮屈な世界の中で生きているのだろうと感じてしまいました。

 

例が「留袖」なので、そんなの着ないといけないわけがない!と思われるかもしれません。しかし誰もが「当然するべき」と思うようなことでも、案外実は「いけない」ということはなかったりするのです。

 

もちろん「してはいけない」ことは存在します。それは、地球に住む皆で(厳密には国ごとに)決めた「ルール」だからです。つまり、世界の普遍的な禁止事項など存在しませんが、ルールはあるということです。

 

人は一人では生きては行けない以上、ルールは守るべきですよね。例えば信号。信号無視は神様が決めた、普遍的な「してはいけないこと」ではありません。でも、車が行きかう赤信号では立ち止まって待つのが「ルール」です。


友人にはその他にも「結納」はしないといけないというルールもあるようで、「面倒だから、しなかった」というと更に更に驚かれました。なので、費用が三割引きになるという理由で結婚式に「仏滅」を選んだことは言えませんでした(笑)

怖いのは、自分の世界観に気づけずにいること

人は自分でも気づかないうちに「植え付けられた価値観」の中で生きています。自分で決めた自分の価値観だと思っていても、時代や、親や、メディアや、友達などなど、いろいろな影響を受けた寄せ集めのようなものです。

 

誰しもがそういう世界観の中で生きているのですが、それと意識できるか、できずに生きるかでは大違いです。


講義で先生がこんなお話をしてくださいました。「なんのために勉強するのか」は、「世界観を変えるため」だそうです。いろいろな世界観を知ることで、自分も一つの価値観の中にいるということに「気づく」ことができるんですよね。

 

そこに気づけないと、植え付けられた価値観の中で生きていくことになります。例えば「SNSの友達が多い方が幸せだ」とか「流行りの●●を持っている人の方が幸せだ」といったような世界の中で。もちろん、それで幸せだというのであればそれでいいのですが。

自分の信じてきた価値観が、「真理」「真実」とは限りません。

 この世界に普遍的な「真理」はほぼありません。一見そう見えても、時代によって変化します。

例えば確かに昭和初期なら結婚するなら「結納」をするのが当然の価値観だったのでしょう。けれど、今はむしろ結納をするのは少数派なのだそうです。そもそも、よくよく考えてみれば結納という儀式はいったいいつ始まったのでしょう? 明治?江戸?平安?では弥生時代は?縄文時代は???

以前は年賀状を出すのが当たり前で常識で礼儀でした。しかし現代は、エコロジーの観点からも、ただ印刷して出すだけの年賀状を「出すのが常識」と捉える人の方が少ないのではないでしょうか。


昔の価値観が全て正しいのならお国のために子供まで戦いに行かせるような思想が正しいことになるのでしょうか?「女子供」より男性の方がエライのでしょうか?

 

価値観は時代によって変わります。そしてそれは時として「お国のために子供まで戦う」という価値観のように「植え付けられる」危険性のあるものです。そう考えてみると、自分の持つ価値観も、植え付けられている可能性があるのではないか、と疑うことは重要なことだと気づきますよね。

自分の意見だと思っていたのが実は誰かの価値観だった、なんて「自分を生きる」ことにならないと思ったりするわけです。さらに、男は男はエライ、という価値観の中で男性が偉そうにしている、というだけならまだしも、女性自身がが「男性の方が偉い」と思い込んでしまうような怖さがあります。

 

価値観を破ることのできる女性たちの努力のおかげで、今は以前に比べれば男女の差は少なくはなってきています。(もちろん格差はすごいと思います。あくまでも以前と比較して、です)

 

しかし、女性の中にも「男性の方がエライ、というけれど、家庭の中では女性の方が偉くて、ダンナさんを手玉にとっているんだから、それでいいのよ」と言ってしまう人もいたりするわけです。(とはいえ、近年そんなことを言うような人は滅多にいませんが・・・(笑))

 

一瞬騙されそうになりますが(笑)その思考自体が、男性によって作られた思考だそうです。そう思わせとけばいいだろう、と甘く見られたわけですが、まんまとひっかかった感じでしょうか。

 

騙す側にも非はあるでしょうけれど、騙されていることにも気づかず、そんなセリフを口にするのを見ると騙される側にもやや問題があると思えなくもありません。

 
「夢を持って生きなさい」とか「目標を持ちなさい」とか、それもまた偏った価値観でしかありませんよね。だって、それは「幸せになれる」というような普遍的なルールではないですから。

 

ちなみにその価値観でトクをするのは「政府」でしょうか。経済効果に有効なので、そのようにキャンペーンしてきたわけで、まんまとひっかかってしまったのが国民、という図式になります。

 

小さな価値観の中で生きていることに気づくと、楽になります

自分が、何を信じ込まされているのかに気づいたうえで、それでも結納がしたい、夢を持ちたい、と決めることが自分らしく生きる、というような意味に通じるのではないでしょうか。

 

同様に、したくないことはしなくてもいいということになります。「ルール」には従うしかありませんが。流行りだからといってインスタをやらなくてもいいわけです。

 

ただ、自分は違う意見でも、それを貫かなくてはいけない、というものではありません。へんなのーと思っても他のママ友が子どもの卒業式に黒を着ていくなら黒を着ればいいのです。だって楽ですもん。

 

でも、それが自分にとって譲れないものならば全員黒を着る中で、白を着たっていいわけです。「ルール」があるわけではないのなら。

 

その代わり、いろいろ言われますよ。マイノリティはいつでも攻撃されますから。着たい服を着てるだけで、悪いことしてないよ!と言える人だけが、着たい服を着れるわけです。(笑)

 

自分が謎の価値観の中で生きていることに気づくといろんなことが楽になります。そのうえ、価値観の中でがんじがらめになって生きている人を見てこっそりほくそ笑むこともできます(笑)


植え付けられた価値観の中で生きるのは学校はもう卒業したはずなのに、謎のブラック校則を勝手に続けているようなものです。もちろん法律になくても「常識」というようなものもありますから一概に古い価値観が悪い、というようには言えません。

 

しかし、一歩立ち止まり、それは本当に常識なのか?と疑うことが重要なのです。結納は常識、と思っていたら案外しない方が常識、となっていたりするわけですから。

 

誰かの価値観の中で生きるのはある意味楽です。けれど、何か違和感を感じるなら、自分の感覚を信じて、その価値観の方を疑ってみることも大切なのではないでしょうか。管理人はその発想の転換で生きることが少しだけ楽になりました。

 

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