ロゴスの小径 ~心の空洞を埋める方法~

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「夢」や「目的」を持たずに生きる意味は?

ロゴスの小径へようこそ。

「目的」や「夢」を持って生きる「べき)だと言われがちです。それに向かって「より良く」生きることが、本当に「正しい」ことなのでしょうか。

「目的」を持たずに生きたい

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旭岳ロープウェイからの紅葉。夢のようでした。

ここ数年、そのことを念頭において生きています。実は管理人は、他にも旅のブログを運営しているのですが、そこに目的もなく、ただ旅をするように生きたい、というようなことを書いたら、「平成生まれの怠け者」というような酷いコメントをされたことがあるのです。(・・・昭和生まれなんですが・・・汗)

なぜ目的や夢が「必要」なのでしょうか?

なぜ目的や夢を持つことが素晴らしいと思いこんでいる人がいるのか、というと、そのように教育されて生きてきたからです。努力して目標に向かえば夢が叶う世界。バブルの頃には、多少そんな片りんもあったのかもしれません。また、夢に向かって努力して仕事をしてくれれば、経済が潤いますから国の経済政策にも適っています。

そのようにして教育されてきた世代には、これはある種の「呪い」です。 最近の教育ではその傾向が薄いようで、若い人にはその「呪い」がかかっていないそうです。中学校の教諭をしている友人によるとやはりその傾向にあるそうです。そういえば会社の新人さんも、「夢とか特にないです」と言っていました。

 

私はそれに対して、昔なら「なんで?!若いのにもったいない!」とか思ったかもしれません。今は、「夢」や「目的」を目指すことが素晴らしいとは思えていないので、夢がなくても別に不幸なわけではなく、楽しく生きているんだなというのが理解できます。

もともとはキリスト教思想から 

そもそも、目的にまっすぐ向かうのがヨイ、とする思想のベースはキリスト教です。といっても、教義、というわけではないですよ。それをベースにして作られた思想という意味です。死後の審判に向かって、より善く生きて、神の国に到達する、というような一本の道筋で時間をとらえるような思想。今の私たち日本人はそれをベースにした時間の捉え方をしているんですよね。

先日ここにも書きました!

pathofrogos.hatenadiary.jp

キリスト教徒ではないので、死後に神様の国にはいけません。なのに、そこに向かうという「目的」に向かって、何の意味があるのでしょうか…。

もちろん、夢や目的に向かって心から楽しく生きている人は素晴らしいと思います。羨ましいですし。私もそうして生きてきたつもりでしたが、実はそうではないことに気づいてしまったのです。自己実現だとか、夢に向かう、とか耳ざわりの良い言葉に乗せられていただけだったんだ、と言うことに・・・。

小さな目的や夢はありますよ?もちろん!でも、一生をかけて貫くような目的がなくても、別に何の問題もないんですよね。まあ、こう言ってしまうと負け惜しみ、みたいに取られがちですが(笑)そして、それも含まれていないとは言いきれませんが。

「青い鳥」を探す必要はない

そもそも、青い鳥を探すことも、幸せはもともと自分のところにあった、的な理解も、物語のお話です。今の自分を幸せだと思い込む必要もないし、青い鳥を探す必要もなかったんです。いえ、繰り返しますが、探したい人はそれでいいのです。そうではなくて、いつの間にか、自分も探さなきゃ!と思い込んでいること自体が怖いことだと思うのです。

 

そこで目的を持たずただ自分を生きたい、とか思うのですが、これが案外難しくて呪いの深さに驚きます。ブログを始めれば毎日書かないと!とか、ランクを気にしたりとか、いつの間にか目的を持ってしまっていたりして。

 

目的を持たず、だた生きるのが幸せな状態。考えたことありますか?私にとっては、犬と暮らすことがそうでした。ただただ一緒に暮らすこと自体が幸せで目的はありません。あとは旅行。旅行に目的はなく、ただそれだけで幸せな時間です。あとはお風呂かな・・・(笑)こうして考えてみても、幸せな気持ちになります。

 

目的を持って生きなさい、と言われて夢や目的を探しがちに生きてきた方は、たまには、自分にとってただ生きるのが幸せな状態ってなんだろう?と考えてみるのはいかがでしょうか。それは思いのほか、自分を幸せな気持ちにさせてくれるかもしれません。だって努力を伴いませんから。

最後までお読みくださってありがとうございました。

 

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